「日本のゴッホ」として愛された放浪の天才画家、山下清の芸術を一堂に。


トンネルのある風景(貼絵)1949年・27歳

「今年の花火見物はどこへ行こうかな」
という言葉を最後に残してこの世を去った画家・山下清。没後、30年を経た現在も、日本全国を放浪し、訪れた風景を純粋な目と心で表現した作品は、私たちの心に強い感動を呼び起こします。

山下清の豊かな人間性と芸術を富山市民プラザでご堪能ください。

パリのエッフェル塔(水彩)
1961年・39歳

両国の花火(油絵)
1955年・33歳
■代表作品(全仕事) ■ビデオシアター
多くの人々を驚嘆させた山下清の代名詞ともいえる貼絵の代表作をはじめ、カラーリストとしての才能を発揮した陶器や緻密に描かれたペン画や挿し絵をご紹介いたします。 山下清の制作風景などを収録した貴重な映像を特別公開いたします。生い立ちから八幡学園での生活、放浪の旅の思いでなど「山下清の一生」を自身の言葉を織りまぜながらご紹介いたします。「貼絵」の作業風景などに「日本のゴッホ」と呼ばれた人間像も垣間見ることができます。
■遺品・関連資料(モノローグ) ■物販販売コーナー
独特の語り口で綴った「放浪日記」や死の直前にサインした「絶筆となったしおり」など貴重な遺品を公開。山下清ゆかりの品々は私たちの心に静かに語りかけてくれます。 代表作品を集めたポストカード、リトグラフ、複製画など販売いたします。


自分の顔(貼絵)
1950年・28歳

群鶏(貼絵)
1940年・18歳
 年 譜
■1922年(大正11年)
3月10日、東京都浅草区田中町に生まれる。
■1925年(大正14年)3歳
重い消化不良にかかり高熱にうなされる日々が続いた。
3ヵ月後に完治したが、それから軽い言語障害・知覚障害となる。
■1934年(昭和9年)12歳
千葉県の養護施設「八幡学園」に入園する。八幡学園での手工作業「ちぎり絵」が清の画才を発揮させて、彼独自の技法による貼絵となる。
■1940年(昭和15年)18歳
11月18日、突然、清は八幡学園から姿を消し放浪の旅に出る。自由を求めた清は、幾つかの職業を転々としながら千葉県各地、そして日本全国へと放浪の旅を続けた。時折、母の家や八幡学園に戻り、脳裏に焼き付いた旅先での風物を貼絵に描いた。放浪中はほとんど絵を描かなかった清だが、その間に彼の才能は損なわれることはなかった。
■1953年(昭和28年)31歳
アメリカの雑誌「ライフ」が清の作品を見て驚嘆し、放浪中の清を探し始めた。同時に朝日新聞も全国の通信網を使って清の捜索を始めた。
■1954年(昭和29年)32歳
1月10日、朝日新聞鹿児島支局により清が発見された。弟、辰造が鹿児島まで清を迎えに行き、清の放浪生活は終った。
■1956年(昭和31年)34歳
東京のデパートで作品展が開催され、1ヵ月の入場者数が80万人を越す大反響であった。
■1957年(昭和32年)35歳
弟、辰造と世田谷に住み始める。以後、他界するまで弟家族と同居し続けた。
■1958年(昭和33年)36歳
東宝映画「裸の大将(小林桂樹主演)」が封切られる。
■1964年(昭和39年)42歳
清の生涯のライフワークとして、素描画と貼絵による「東海道五十三次」の制作を始めた。東京から京都まで、数年間の取材とスケッチの旅が続いた。
■1969年(昭和44年)47歳
「東海道五十三次」の取材を終え、制作に専念していた清は高血圧による眼底出血を起こす。以後、作品制作を中止し自宅での療養生活を続けた。
■1971年(昭和46年)49歳
7月10日の夜、突然の脳出血で倒れる。発作後意識が戻らず、7月12日朝に永眠する。清の最後の言葉は「今年の花火見物はどこへ行こうかな」であった。

■山下清展

5月12日(土)〜27日(日)午前10時〜午後6時(最終日は午後5時で終了)
入場料:一般/800円(高校生以上)、中学生以下無料
会 場:市民プラザ2階 アートギャラリー

主 催:(株)富山市民プラザ・(財)富山市民文化事業団
後 援:富山市教育委員会・北日本新聞社
    NHK富山放送局・北日本放送・北陸放送
企画・協力:産經新聞社
お問い合わせ
 富山市民プラザ  富山市大手町6番14号
 TEL:076-493-1313